「きらい」という感情について考えていました
「きらい」という感情に「いい」も「わるい」もない
私たちは「きらい」になることを 怖れている気がしたんです
自分の容姿、
例えば「ああ、もっと目が大きかったら」
「もっと肌がきれいだったら」
自分のくせや思考パターン
「人に厳しくあたっちゃう」などなど
でも
自分の中に「きらい」があることを
「受け入れる」
「いい/わるい」でラベルを貼る前に
自分の中の「きらい」を受け入れると
次第に周りにいた、
あったように思っていた「きらい」な人やことが
軽くなって、次第に消えていきます
たとえば、
にんじんが「きらい」だとして、
そのにんじんがきらいということに
別にいいも悪いもない。
ただ「きらい」
まったく食べられないけど、見るのはいい
細かく切って料理に使われていればいい、
その感覚は千差万別です。
「にんじんがきらいで、そんな私ひどい・・」
「どうにかして好きにならなきゃ」
「にんじんが嫌いな私・・落ち込んじゃう」
「にんじんが憎くて仕方がない」
という人はあまりいないと思います。
ただ「きらい」
それと同じで
自分のなかに沸き起こった「きらい」も
ただ受け入れて
にんじんと同じくらいのレベルで
軽く感じてみると
身体に起こっていた嫌悪感が消えていきます
自分の中に「きらい」なところがあっても
それを受け入れる
「いいじゃん、それで」って
そうすると「きらい」と感じる後ろに
温かく見てくれている存在に気づきます